松浦製作所の歴史
1.創業まで
創業者 松浦 等 は、明治25年3月25日に 島根県邑智郡美郷町奥山で生まれました。
その後、港湾で荷役の仕事に就いたりしながら、生計を立てたりと東京に出てくるまでにいろんな苦労をしたようです。
何回も死のうかと思うような苦労のようでした。
そして、日立製作所の前身である久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場に勤めるようになりました。
そのときに運命が、変わったのですが担当している東京ガスの資材担当者であった安西 浩 (故人 元会長)さんと知り合い独立を進められて松浦製作所を昭和4年5月に創業することになりました。
その当時の自宅は白金にあり、工場が今会社のある品川に工場として立っておりました。
2.創業から戦中まで
創業後東京ガスで使用される海水ポンプ用羽根の設計製作や日立鉱山で蓄えたノウハウで鉱山機械類の製作を手がけ、戦争中は小松製作所と提携して戦車のキャタピラ部品の製作も行っておりました。
その当時の従業員が出征兵士として赴く際の工場前での写真です。
3.戦災から天然ガス転換
戦争が激化して、創業者 松浦等の長男である松浦一郎(元社長)も、早稲田大学から将校として出征してゆくことになりました。
家族は、東京から島根県津和野に疎開することになり当時小学生であった現会長 松浦邦夫も疎開したのでした。
昭和19年3月、戦災により白金の家も品川の工場も、焼失してしまいました。
そのため会社も一からのスタートを、きることになったのでした。
工場も焼失したことから、昭和21年6月より商社としての第一歩である機械工具類の
販売を開始しました。
昭和22年 松浦一郎は、戦争から戻ってくると東京ガスに勤めることになり、元東京ガスの会長 渡邉宏さんは同期入社でした。
松浦邦夫が、慶応大学卒業後カイト化学工業に入社していましたが昭和36年退社して弊社に入社してきました。
その後、専務として天然ガス転換事業に注力しました。
その結果、天然ガス転換の第一次熱量変更(3600kcalから5000kcalへ)に際して器具調整業務用工具を納入、昭和37年10月に東京ガスより感謝状を授与しました。
引き続き昭和47年に作業開始となった第二次熱量変更(5000kcalから11000kcalへ)に際しても納入、熱量変更50%達成時に再び東京ガスより感謝状を授与、平成元年には、熱量変更完了により三回目の感謝状を授与しました。
その間に昭和49年8月に資本金5百万円にて会社組織に改組、名称を株式会社松浦製作所に変更しました。
昭和50年には、松浦一郎が、東京ガスを中央事業部 副部長を最後に退社して8月に弊社の取締役社長に就任しました。
昭和52年8月には、資本金を1千万円に増資しました。
4.天然ガス転換から現在まで
熱量変更が完了した平成元年に現会長である松浦邦夫が取締役社長に就任しました。
その後娘婿である現社長宛木宏之が、山洋電気株式会社を退社して平成7年に入社して営業として東京ガス 研究所関係を中心に担当、また社内のIT化を進めてきました。
平成14年には、松浦邦夫は、会長に宛木宏之が取締役社長に就任しました。
平成16年に社内の情報共有化のために営業販売支援ソフト「e-セールスマネージャー」を導入して、平成17年には新規事業であるeFPの「営業メールシステム」の販売も開始しました。